七転八起!? 起業家カーネルおじさん
「失敗」と「成功」のカーネルおじさん
クリスマスが近くなってきました。こんな日はフライドチキンに限りますよね。
ところで、ケンタッキーフライドチキンでおなじみの「カーネルおじさん」こと、カーネルサンダース。彼は、高齢になってから起業した人と言われています。
ところが、彼はケンタッキーフライドチキンを創業するまでに成功と失敗を繰り返していることは意外と知られていません。
彼はまさに「起業家」そのものでした。彼は事業で大成功をおさめながら、ある時は失敗と挫折をする。こういったことを繰り返しながら、今日の成功に繋げています。
そこで今日は、サンダースの半生を振り返り、彼が苦難と乗り越えた行動から、私たちが教訓とすべきことを学んでみましょう。
フリーター サンダース
ケンタッキーを創業したカーネル・サンダース。実はこれは、彼の本名ではありません。本名は、ハーランド・デーヴィッド・サンダースと言います。
「カーネル」という名は、日本語で「大佐」を意味します。アメリカ・ケンタッキー州知事から「人々への貢献」として、彼に名誉称号「カーネル」が授与されたことから、この呼び名となっているのです。このため、彼を「サンダース」と呼ぶことにします。
サンダースは、1890年に生まれました。ところが、わずか5歳で父親が亡くなり、母子家庭となりました。このため、7歳にして食事を作り、兄弟の面倒をみるという苦労を背負っています。しかし、それにも関わらず彼は、一つの仕事に留まるというのが苦手でした。なんと、40以上の職につきながらも転々としています。まさに、現代で言う「フリーター」でした。
鉄道作業員として働いていたサンダース
大成功!?…しかし助産師へ転身
サンダースは、18歳で商人の娘ジョセフィーンと結婚し、3人の子供に恵まれました。ところが、若きサンダースは様々な仕事を次々に変えて転々としていました。
ある日、彼らはケンタッキー州に移り住むことになりました。ところが、自動車でケンタッキー川のつり橋を渡ろうとしたとき、川に転落して大怪我をしてしまいます。
しかし、そのときに出会った紳士、「スタンダード石油」のマネージャーと出会い、彼の人生が変わりはじめます。このことを通じて、サンダースはスタンダード石油のサービス・ステーションの経営を手掛けるようになりました。
彼はガソリンの提供だけでなく、無料でフロントガラスの清掃や空気圧のチェックをしたりしました。この営業方法は当時、誰もやっていない方法でした。
このため店は、瞬く間に評判となり、他のステーションの3倍の売上を達成するようにもなりました。
1930年に開いた小さなガソリンスタンド、「サンダース・サービスステーション」
ところが、1927年にケンタッキー州で干ばつが発生します。さらに1929の世界恐慌も相まって、彼の事業は失敗、破産することになりました。そこで彼はスタンダード石油のサービス・ステーションをやめることを決意します。
しかし、幸運なことが起きます。なんと「シェル石油」が彼にビジネスの申し入れをしてきたのです。ケンタッキー州コービンへ移るならば、無償でステーションを建てられるという破格な条件付きでした。
ただ、彼はお金がありません。そこで急場をしのぐために助産師となります。
フライドチキン誕生! …しかし倒産
サンダースは、助産師を辞めてコービンに移り住むと、サービスステーションの開業をはじめました。彼の再出発でした。彼はさらに、サービスステーションにレストランを併設し、「サンダース・カフェ」を立ち上げました。
彼の行ったビジネスは当時としては新しいものでした。その上彼が行った多くの広告がトラックドライバーを中心に評判になり、店は瞬く間に評判となりました。
そして、彼は創業2年目にレストランのメニュー開発に取り掛かりました。それも、かつて彼の母親が作っていた「チキン料理」のメニューでした。さらに、当時新しく発明された「圧力鍋」を用い、わずかの時間でできる、"あの"「フライドチキン」を作り上げることに成功しました。
実は今日、世の中に出回っているフライドチキンは、サンダースが考案したのではありません。彼の母親によるものなのです。
その後、彼はレストラン事業を順調に拡張しました。3号店まで立ち上げ、本にも紹介されるようにもなりました。そこで、彼はさらなる事業拡大に乗り出します。
彼は金融業者から資金調達をしてモーテル事業をはじめました。そこでは焼き立てのビスケットや脂身のカリッとしたステーキを出していたようです。
ところが、順風満帆な時期は長くは続きません。
第二次世界大戦がはじまったのです。客足が途絶えるようになり、ガソリンや石油、タイヤが配給制になり、休暇を取る人がいなくなりました。
さらに苦難が続きます。サンダースの店は、高速道路の出入口付近にありましたが、行政が高速道路を移転してしまいました。
このことで客足の流れが変わり、結局、彼はモーテルを閉鎖することになりました。しかも、高速道路が移転され、モーテルを売却しようにも地価が激減しています。
結局、モーテルを手放したとき、彼の手元には新しいビジネスをはじめるだけの資金は残っていませんでした。
再起!「ケンタッキーフライドチキン」の成功
既にサンダースは、66歳になっていました。
彼は毎月105ドルの年金を受け取る生活になっていました。しかし、彼の辞書には「諦める」ということはありませんでした。失敗しても「次はなにをしようか…」と考えていたのです。
そして、彼に新たな転機が訪れます。
1952年、ピート・ハーマンとフランチャイズ契約をしたのです。折しも、ケンタッキーフライドキチンとして誕生した瞬間でした。
サンダースがシカゴ大学の講座に参加していたとき、同じ講座でピートと知り合いになりました。そのとき、彼にフライドチキンの作り方を教えたのです。
それから5年後、ピートは350万ドルものビジネスにまで拡大していました。圧力鍋を1日8回転させなければならないほどフライドチキンを売り上げていたのです。
それからというもの、サンダースはかつての店舗型ビジネスから、フランチャイズ型ビジネスに転換するようになりました。
ところが、初めはサンダースがフランチャイズ契約を売り込みに行っても全く相手にされません。しかしそれでも彼は諦めませんでした。何と1009回も交渉し、断られても諦めずに売り込みを続けたのです。
この結果、少しずつ取扱い店舗ができました。そして1羽につき、5セントという画期的なフランチャイズビジネスにまで成長させました。
「諦めない」ことが成功への道だ
サンダースはこのような言葉を残しています。
「失敗とは、再始動したり、新しいことを試したりするために与えられたチャンスだ。私はそう信じている」
サンダースは、失敗をマイナスと考えませんでした。むしろ前向きに考え、高齢ながらもチャレンジを続けてきました。
私たちは、ちょっとの失敗だけで諦めがちです。しかも、長い間チャレンジしてこなかった人は、「もう自分は人生の夕暮れ時に差し掛かっている」と考えている人も多くいます。
しかし、カーネル・サンダースは、最後まで諦めませんでした。
私たちは失敗しても諦めず、成功を信じていくことが必要です。
【参考資料】